聖歌184 さめよ日はちかし Dmaj

Wachet auf,ruft uns die Stimme(Orig.Eflat) (Wake awake for nighit is flying) PHILIPP NICOLAI,1599 Arr.by J.S.BACH,1731

手持ちの古い聖歌集(絶版)の聖歌184番を前回歌ってみましたが、 テンポが極端に遅く、さらに、キーが歌いにくかったので原曲に近いDで歌い直してみました。BACH BMV140 コラールの最終の第七曲 “Gloria sei dir gesungen “に近い曲と思います。4声を一人で歌い合成しています。テンポは♩=80ぐらいです。

讃美歌集の”讃美歌21″の中では讃美歌230番 「起きよ」と呼ぶ声 という歌がありますが、これはフィリップ・ニコライの原曲に近いものだと思います。

姉が対馬に・・・。

 私には二歳年上の姉がいます。しばらく介護施設で看護師長をしていましたが、最近は看護学校で教えているということです。

 父も数年前に亡くなり母が今年の初めに亡くなったので、姉が実家を相続しました。それで、様々な昔の写真を整理していると、私の父方の祖母の関係の写真や手紙が沢山出てきて、それが誰なのか関心を持ったようです。

 父方の祖母の弟さんの子供さんがまだ生きていて(80才代とのこと)、連絡が取れたそうです。祖母の父は漁師でしたが、もともとは江戸時代初期の対馬藩の一大事件で、柳川一件という国書偽造に関わった松尾という人物に関係していたとのことでした。

 その末裔は改易して、その後は朝鮮通信使の通訳として活躍したとのことでした。
今回姉が、友達と対馬に行ってあちこち回って見たそうですが、資料館とかの方も、祖母の家の苗字は知っていたようで、色々説明を受けてきたそうです。

2023年初釣り ブリ、マハタ

由良 孝洋丸

最近、仕事が忙しく、釣りに出かける余裕もありませんでしたが、1月は、少し余裕ができるという予想のもとに、知人が由良の孝洋丸をチャーターするということで、12月に1月21日の参加予約をお願いしました。(釣り乗船は五人でした。)

大阪から来ている人がいるということで、出船は9時、終了は午後4時でした。

のませ釣りということで、レンタルロッドと電動リールを借りて、仕掛けは市販のものを持参しました。買ったものには一本針で孫バリが付いていなかったので、5cmの8号ハリスと10号ヒラマサ、ブリ用の針を孫針として追加して結びました。

由良の近海では余り釣れていないとのことで、徳島の近くまで行くことになり、結構荒れた海を二時間ぐらい走って釣り始めましたが、なかなか全員アタリがなく、午後まで仕掛けを下ろしては上げて移動を繰り返していました。今日はダメかと思いかけた時、アタリがあり、41cm、920gのマハタが釣れました。

マハタは孫バリのみに掛かっていたので、付けて正解でした。

終了近くに誘いあげていって、底まで落とした時、強い当たりがあり83cmのブリが釣れました。

他の同船者は釣れていなかったのでラッキーだったと思います。

船長の話で誘いのリアクションで結構食ってくるという話だったので、意識してやったのが良かったかもしれません。

続・さめよひはちかし

さめよひはちかしについては、譲り受けた古い本で、日本福音連盟発行の「聖歌」という本を見ていたら、184番の楽譜が気になりました。それで歌ってみたらなかなか良いと思ったので、テンポが超スローで難しかったんですが、録音してみたのがこの曲を知るきっかけでした。楽譜には、原作者 Philipp Nicolai アレンジにJ.S. BACHと出ていたので、最近少しネットを見て調べてみるようになりました。

Philipp Nicolaiの原曲は下記のようなものではないかと思います
Wachet auf, ruft uns die Stimme (Sleepers awake) – Philipp Nicolai / Martin Gaskell

Martin Gaskellはカリフォルニア大学天文・天体物理学科の講師 The American Prize (2021)、プロの合唱作曲家部門のファイナリストです。
以下はこの音楽の Martin Gaskellによる説明文です。
これは、私のセッティングでの有名な合唱曲「Wachet auf, ruft uns die Stimme」(「Sleepers awake」) です。コラールの歌詞と音楽は、ルター派の牧師フィリップ・ニコライ (1556 ~ 1608) によって書かれました。彼がウェストファリアのウンナで牧師をしていたとき、ペストが彼の教区民の何百人もを殺しました。これに対するニコライの反応は、1599年に彼の本「Freudenspiegel des ewigen Lebens」(「喜びの永遠の命の鏡」)を書くことでした。 “Wie schon leuchtet der Morgenstern”)。

ヨハン・セバスティアン・バッハは、カンタータ BWV 140 で、教会の年の最後の日曜日、アドベントの前の日曜日に「Wachet auf」を使用しました。賛美歌のテキストは、イエスの再臨についてです。
起きろ、起きろ!スリリングな知らせで
すべての空気が満たされている見張り人、
起きよ、エルサレムよ、起きよ!
時計は真夜中を告げる! もう遅らせることはありません。
時が来ました!私たちは彼らが言うのを聞きます、
賢明な処女の皆さん、あなたたちはどこにいますか?
花婿が見えてきて、
松明を高く上げて明るく!
アレルヤ!結婚式は大声で力強く盛り上がります:
さあ、お祭りの群れに加わりましょう!

シオンは見張り人の叫び声を聞き、
彼女の心は間違いなく喜びで跳ね上がり、
彼女は立って熱心な目で待っています。
天国から彼女の友人が降りてくるのを見て、
終わりのない真実と恵みで飾られた!
彼女の光は澄み渡り、彼女の星は昇る。
さあ来い、貴い王冠よ、
主イエス、神の子よ!
ホサナ!そこに従う準備をしましょう。
あなたの夕食のどこで私たちは分かち合うことができますか。

あなたのすべての魂は喜び、
人と天使の声から
あなただけに栄光が与えられますように!
今、真珠の門が私たちを迎え、
あなたの存在は、もはや私たちを離れることはありません。
私たちはあなたの玉座の周りに天使たちと共に立っています。
地球は下に与えることができません
あなたが与える至福。
アレルヤ!日の長さを上げることを許可してください。
あなたの賛美の勝利の合唱。
(以上Martin Gaskellより)

それでバッハカンタータ140を聞いてみると、

Bach – Cantata no. 140 ‘Sleepers awake’

中ほどにゆっくりとした合唱が聞こえてきます。ということは、
多分これが日本福音連盟発行の「聖歌」の原曲かもしれません。

でもゆっくり過ぎて、三番まで歌おうとしたら長くなるし、ものすごく歌いにくいので、外国ではテンポを速めて歌っていますね。(私もこっちで歌えば良かった・・・・・。下記参照)

Nicolai/Bach, Wake, O Wake! (Trinity, Cambridge)

Wake, O Wake! With Tidings Thrilling

バッハ作品を復活させた、メンデルスゾーンもこの曲を取り上げています。
メンデルスゾーンの有名なオラトリオ St Paul (セント ポール)、作品36は1836年に初演されました。

香港のOratorio Societyの合唱です
St Paul : Sleepers Awake, No11


カンタータは器楽伴奏の付いた声楽作品のことです。バッハカンタータ140はプロテスタント教会での礼拝のために書かれたコラール(讃美歌)を取り入れた教会カンタータです。バッハカンタータ140は合唱が入っていますが全7曲から成るこのカンタータの第4曲を後年、オルガン用に編曲したものが「シュープラー・コラール集」第1曲の「目覚めよと呼ぶ声あり」BWV645です。

Wachet auf, ruft uns die Stimme (Sleepers Awake, BWV 645); Rodney Gehrke, organ 4K HD Video

OLD VERSION Bach – Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 645 – Zerer | Netherlands Bach Society

ピアノ版はこちら
Jan Lisiecki – Bach/Busoni Choral Prelude “Wachet Auf, Ruft Uns Die Stimme”, BWV 645

ブラスアンサンブルはこちら

Barclay Brass plays Bach – Wachet auf, ruft uns die Stimme, BWV 645

Boston Brass – Wachet auf, ruft uns die Stimme, BWV 140 ( Official Music Video ) 4K

平原綾香も、
Sleepers, Wake! ・ 平原綾香

さめよひはちかしの歌詞は、マタイの十人の処女たちのたとえから来ています。

十人の処女たちのたとえ(マタイによる福音書25章1節から13節(口語訳))

そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。

花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。

彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

準備が無ければ再臨主が来たことすらわからない。預言者マラキは、メシヤ降臨に先立って、既に昇天したエリヤがまず来るであろうと預言したのであった(マラキ四・5)。したがって、イエス当時のユダヤ人たちは、昇天したエリヤその人が再臨するものと思っていたから、当然エリヤは天より降りてくるであろうと信じ、その日を切望していたのである。

ところが、意外にもザカリヤの息子として生まれてきた(ルカ一・13)洗礼ヨハネを指して、イエスは、彼こそがエリヤであると、明らかに言われたのである(マタイ一一・14)。

 再臨のイエスもエリヤが天から降りてこなかった如くに地上で誕生した人物であり、世界でもっとも迫害を受けた人物です。

元亨利貞その二 フビライは元の国号を元亨利貞から取っていた。

NHKBSプレミアムの世界史ドリームマッチ 最強キンク決定戦「最強を決める王は誰だ」という番組を見ていたら、フビライは宗教や、人種にかかわらず有能な人材を取り立てて登用し、征服した地域も、変わらずにその者たちに治めさせるなど、人心をつかむことを優先して政治を行っていたとのことでした。

最近テレビは、ハードディスクに録画したものを1.2~1.5倍速で見ています。日曜日の牧会者の説教も、録画で見る時は、二倍速ぐらいがちょうど良い場合があります。(結構間があったりするので) (^-^) v

番組によると、

易経の「乾」の箇所で、

    ↓  ↓
彖曰、大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始、六位時成。時乗六龍、以御天。乾道変化、各正性命、保合大和、乃利貞。首出庶物、萬國咸寧。

彖に曰く、大いなるかな乾(けん)元(げん)、萬(ばん)物(ぶつ)資(と)りて始(はじ)む。乃(すなわ)ち天を統(す)ぶ。雲行き雨施(ほどこ)して、品(ひん)物(ぶつ)形を流(し)く。大いに終始を明らかにし、六(りく)位(い)時に成る。時に六(りく)龍(りゅう)に乗じ、以(もっ)て天を御(ぎょ)す。乾(けん)道(どう)変化して、各(おの)々(おの)性(せい)命(めい)を正しくし、大(だい)和(わ)を保(ほう)合(ごう)するは、乃(すなわ)ち利(り)貞(てい)なり。庶(しょ)物(ぶつ)に首(しゅ)出(しゅつ)して、萬(ばん)國(こく)咸(ことごと)く寧(やす)し。

フビライは易経の 彖伝 (これは孔子の解釈と言われています。)
その中の大哉乾元の中の漢字の「大」と「元」を取って「大元」としたということです。

辞書による 「元亨利貞」 の解説も載せておきます。即ち下記の「 聖人が天の自然の功をさして、元亨利貞と名付たる也 」というのがわかりやすいかと思います。

精選版 日本国語大辞典「元亨利貞」の解説
① 易経で乾(けん)の卦(か)を説明することば。「元」を大、「亨」を通の意にとり、「元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利あり」とよむのが通例。
② 乾(天)の四徳。「元」は万物の始め、最高の善、「亨」は万物を生育し通達させる働き、「利」は万物の生育を遂げさせ、各々そのよろしきを得させる働き、「貞」は万物の生育を成就充足させる働き。四徳は、春夏秋冬、仁義礼智などに配当される。四巻でなる書籍の巻次にも用いる。
※応永本論語抄(1420)公冶長第五「聖人が天の自然の功をさして、元亨利貞と名付たる也」 〔易経‐乾卦〕

デジタル大辞泉「元亨利貞」の解説
易経で乾けんの卦けを説明する語。「元」を万物の始、善の長、「亨」を万物の長、「利」を万物の生育、「貞」を万物の成就と解し、天の四徳として春夏秋冬、仁礼義智に配する。

聖歌184 さめよ日はちかし

「やよ花婿なるぞいで迎えよ」
マタイ25・6
Wachet auf,ruft uns die Stimme(Orig.E flat)
(Wake awake! for night is flying)
PHILIPP NICOLAI,1599
Arr.by J.S.BACH,1731

一人で4声を歌って合成しました。 チャーチオルガンの音は、PRINTMUSICを使用。

この曲は♩=40で、ものすごくゆっくりなので少し速めたらだいぶ楽なのですが、バッハのアレンジなので何か意図があるのでしょう、ということで忠実にやってみました。原曲はE♭ということなので、そちらのほうが低音部のほうは楽かもです。

かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心 広く広く もっと広く私の宗教遍歴③

かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心 広く広く もっと広く

 これが般若心経、空の心なり

以前の薬師寺管長故高田好胤師の言葉です。

白光真宏会の五井昌久先生の「神」という概念を通して、空の心とは「神の心」ではないのかということに気付き始めたのです。そしてどんなことでも偏見のない心でいったん受け入れようという態度を持っていました。

そして「統一原理」は「神」という存在を明白に教えてくれました。そしてイエス-キリストの生涯、メシヤは誰なのか。特に聖書の中のタマルの血統から、何故イエスキリストが生まれたかという話は重要です。 文鮮明師は1992年3月26日に法務大臣が特別に入国を許可し入国。31日には自民党の副総裁だった金丸信(1914~1996)と都内のホテルで会談しました。中曽根元首相とも会談。その時に語った話が、この タマル の話だったと言われています。

そうすると、教会に入ってからは霊的な現象を体験したりしました。霊的な現象に関しては次の方の体験談が参考になるかもしれません。

死んだら分かるけど、分かったら遅い

DVD 死んだら分かるけど、分かったら遅い

「日本のモーセ」と呼ばれた男 久保木 修己

「日本のモーセ」と呼ばれた男 久保木 修己という動画を紹介します。

統一教会初代会長の久保木 修己先生の動画を紹介します。立正佼成会から、優秀な青年たちを引き連れて、統一教会に入ってきた経緯が語られています。

私の宗教遍歴②

般若心経を覚えて勉強しているうち、その他、宗教全般、心霊的なもの全般に興味がわき、様々なことに関してそれ関係の本を読み漁りました。

特にはまったのは、インド系のヨガ関係、真言密教、手相、易、タロット、カバラ、西洋占星術、老荘思想、等です。

当時、バグワン・シュリ・ラジニーシや、阿含宗の桐山靖雄の密教の本が出ていて、かなり影響を受けました。

瞑想をやったり、急に一時的に菜食主義になったりしていました。

学校を卒業し、元陸上自衛隊だった父の勧めで、海上自衛隊に入りました。そこでもいろいろと宗教や占いを勉強していましたが、特に薬師寺管長だった高田好胤師が部隊に来られて説法を聞き、ご縁を感じました。

最終的に白光真宏会の五井昌久先生の「神と人間」という本に出会い、「世界人類が平和になりますように」という世界平和の祈りをしていました。

ある夏の日、白光真宏会の道場があるという市川の駅付近を歩いていると、男子大学生で、夏休みの伝道活動に来ていた人に声をかけられて出会い、近くの施設でビデオを見たのが、家庭連合に入るきっかけとなりました。

ファミリーヒストリー① キーワードは満洲開拓

もともとの本籍地は宮城県の岩沼で、ここに岩沼城(鵜ヶ崎城)というお城があってその近くに住んでいました。
父の話では御殿医をしていたのではないかということでした。

裃を着た写真と、六文銭の付いた槍の穂先が実家に残っていました。祖父の母は、皇室の方も取り上げたという有名な産婆で、夫を迎えて財産を相続し、家を継ぎました。しかし二回離婚しています。結局、祖父の母の下の弟が家を継ぐようになりました。

父の話では、祖父は岩沼の殿様と一緒に旧制の仙台一中に入学し、殿様は級長で祖父は副級長だったということでした。殿様は、その後、初代岩沼市長になりました。

祖父は、拓殖大学に入り、その後大陸に渡り、南満州鉄道に入りました。満鉄では、中国の炭鉱の責任者をやっていました。そして炭鉱から産出する琥珀を持っていたとのことです。その後、満鉄から長期功労賞として銀杯をもらっています。

祖父は、朝鮮で財閥の長女(祖母)と出会い結婚しました。祖母の妹は、溥儀皇帝の側近の人物に嫁いでいました。祖父の家には正月になると、その家から毎年お膳が届いたということです。結婚式は百畳敷の大広間で政、財界人が集って大々的に行ったということです。

祖母の父は対馬の漁師で、あるとき、朝鮮海峡を泳いで渡って一代で財を成したという伝説の人物です。果樹園や芸者の置き屋を持っていたとのことです。京城(ソウル)に料亭も持っていました。